名 作 R P G を 遊 ぶ (か も) 2

洋ゲーRPGや非電源ゲームを扱った頁でしたが、最近はユルいジャンルになりそうです

The Girl (ティッピ・ヘドレンと巨匠)

近年ヒッチコックの裏話が映画化されている。ハンニバル・レクターを演じたアンソニー・ホプキンス主演の「ヒッチコック」も日本では4月に公開予定。

ヒッチと呼ばれていた巨匠。『鳥』の主役に抜擢されたのはTVのCMに映った金髪モデルだった。
「彼女はどう? 笑顔が素敵だわ」奥方のアルマがヒッチに言う。
その娘こそ、ティッピ・ヘドレンだった。スウェーデン出身の彼女は若くして離婚した一児の母。女優業は初めてだ。生まれつきの金髪、グリーンの瞳。

ヒッチは「まだ隠れている何かを感じさせる」とカメラテストで既にティッピを大変気に入った様子。
ティッピの方も「彼はとても紳士的な英国人だわ」と評していた。ところが……。

餌付けしたカモメが逃げ出してその日の撮影がオジャンになった帰り道。ヒッチとティッピを乗せた車という密室。巨匠はいきなり彼女に覆い被さると唇を奪って胸をまさぐる。

驚いたティッピは、巨匠のセクハラから逃げて車を降り、皆の前で宿泊所へと駆け込む。彼女は持ち前の冷静さとプロ根性でこの事件を頭から追い出そうとする。

翌日の電話ボックスの撮影。彼女は努めて平静を装う。ヒッチも何事も起きなかったかのように振る舞う。しかし、その口調は陰湿だ。
「震えているね。スタジオが寒くなければよいが」
作り物のカモメが電話ボックスのガラスを割ると、破片が彼女の顔と腕に突き刺さる。

そこから巨匠の要求が厳しくなるのだった。それはまるで拒んだことへの仕返しのようだ。本物のカモメが飛ぶ中で、襲われる芝居をほぼ半日やらされる。周囲の者達もこの撮影の異常さには気が付いていた。意固地な老人が金髪美女を屈服させようとしている。何故? 理由に心当たりがあるのは、秘書と夫人とジムと主演女優付きのスタイリスト。しかし、誰も老人を止めることができない。

ティッピはこの一件で精神的に参ってしまう。しかし、一週間後、見事なプロ根性で撮影現場に復帰。『鳥』は無事クランクアップし、次回作の出演契約も順調に進んでいく。同時にヒッチの執拗な要求もエスカレートしていく。

かつて巨匠であった男は若さに嫉妬している老人だった。イチモツは勃たず、若さの為なら何でも売り渡すとジムにこぼす。クリスマス・イブの夜には愛しい金髪女性に熱烈な電話をかけ、一緒に住もうと仄めかす。見咎めた奥方はとうとう家を出て行ってしまう。

「誰も見ていない。触ってくれ」ヒッチはスタジオで彼女を求める。
『マーニー』の撮影。それはまさに金髪のティッピを裸にして征服せんとする老人の欲望そのものだった。ティッピはその意図を知るにつれ、老人の恐ろしさに自分を失いそうになる。
「あの人が私の中身を全部絞りだそうとしている!」

健気なティッピは頑なに老人を拒み続け、そしてラストカットを撮り終える。巨匠は最後にカットと声をかけるしかなかった。それはマーニーが解放され、再出発の自信を取り戻したと同時に、ヒッチが敗北を認めたようでもあり……。

編集試写中、夫人がヒッチの元へ帰ってくる。
「髪を染めたくらいであの娘を屈服させたことにはならない。あたしなら、もっとあなたの意図に沿ったアイデアを出してあげられる」

………

この映画、まず見て思うのは、巨匠も壊れかけの老人に過ぎなかったということ。人間、老いるとどこかしら崩壊が進んでいく。男性の場合は幼稚化(わがまま)が多くなるように思う。ああした映画の構想や主張を臆面も無く出せるということは、やはりどこかしらに普通とは違う異質な、いわば変態の素質を大事にしたようなところがあるわけだろう。そのタガが外れれば不味いことにはなる。

さもなければ、誰の中にもあるアブノーマルを、テーマにできるほどに濃縮して取り出すのが上手いというわけで、その過程は自分の欲望を強化してしまう手段にもなり得る。カメラを前にしたスタジオというのは、不思議にも魔法の命令が下せる結界でもあり、そこに囚われた俳優という生身の人間はややもすると犠牲者になりかねない。ある種のパワハラに近い。優れた映画の為に故意に刺激をしているのだという弁解は通用しないかもしれない。

この映画は客観的な暴露として受け取れるだろう。場合によっては自意識過剰な女優が、有ること無いことを著者に語った(映画はノンフィクションを原作としており、ライターによる取材が元になっている)と邪推することも可能だ。しかし、ヒッチ周囲の人間の応対の描かれ方をみるに、まんざら嘘でも無い事実に思えてくる。彼らはそれを知っていたが、巨匠の人となりから、敢えてダークな部分に踏み込むようなことはしなかった。ヒッチはいずれにせよ権力者でもあった。権力を笠に着た台詞が劇中ではある。

ただのセクハラ爺の映画というばかりでもない。若い女性からすれば嫌な体験には違いなかろうが、男性の老いへの悲しみのようなものも感じられる。若さ、美や活力への執念が映画製作という情熱に転化しているとも受け取れる。

人間どこかしらに願望充足を求めることは自然だ。果たせないからこそ、作品という形を借りて昇華できる。巨匠もリア充ではないらしい。不運にして監督の標的となった女優はお気の毒だが、作品には監督の欲求から女優という人間の心血を経て再現されたテーマが、上手いことカタチになっている。その不可思議な過程をこれまた映像表現という同じ媒体で説明してくれる手法が大変興味深く、面白い。これは文字から発せられる結論とはまた違う意味の拡散性を持っていて、人間の数だけ受け取り方が存在できうる。それこそがキモだ。

老いを経た夫婦の在り方の再確認という見方もあるだろう。夫人アルマが亭主のもとへ戻ったのは何故か? どうして欠点を知りながらも亭主の横暴を許すのか。連れ添った男女にはセックス以上の関係が出来上がっている。

若い女性にとっては、強い自己を持つとはどういうことか、啓発にもなりそうだ。ティッピではない出世欲のある現代的な女性だったなら、売名のために老人と寝てしまってもよかった(もっとも、老人の欲求は単に寝ることくらいで満たされたとも思えないが)。老人より上手(うわて)な女性であれば、監督の采配を手玉に取ることすら可能だったかもしれない。枯れた老人の野心が性欲なら、これだって立派な野心だ。そうせずに自分を安売りしないことの意義を考えてみるのも悪くない。
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[ 2013/03/15 00:42 ] 映画、ドラマ感想 | TB(-) | CM(0)
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