名 作 R P G を 遊 ぶ (か も) 2

洋ゲーRPGや非電源ゲームを扱った頁でしたが、最近はユルいジャンルになりそうです

ウォーキング・デッド一気視聴

第3シーズン

これは難物。刑務所を終の棲家とするくだりは見ていて安堵したり、リックの厳しさに辛さを覚えたり…。ドラマとしての見せ所は、シェーンを巡る物語でほぼやり尽くしてしまったことがありありと分かる。エスカレートする視聴者層に対して制作側が用意する次なる登場人物とは……。作劇上の趣向が凝らされた、いかにも(厚みの不明)なガバナーである。彼がドラマにおけるコアなテーマを果たして提供できるのかどうか。

残念ながら、ウッドベリーとの並行で描かれたせいで、ローリ出産のくだりが、緊張感を欠いてしまうものとなった。重要な意味を担っていた登場人物のローリが、ああも簡単に見捨てられるとは想像だにできなかった。帝王切開をしてからウォーカーに変異してしまうまでの間に、リックが合流するチャンスが皆無ではなかったように見える。まだ死んでいない、と私だったら叫んだろう。

これで「親友、女房、きまじめな夫」という構図が崩壊し、親友とは絶交、細君とは離婚、のような状況である。『ゾンビもの』だが、家庭的な三人を主軸に捉えたドラマだったと私は理解している。そうしてこれからは、二人目の子供(今度は娘)と、片親で育てることになる難しい時期を迎えた息子の成長とを見守るわけだ。リック自身は苦難の末に、もう一度自我を確立する。リーダーとしての在り方に彼らしい結論も出た。その次にはきっと再婚相手が登場するのではないか。そもそも、グレンとマギーの若夫婦に座が奪われつつあるが。

Tドッグ……とうとう目立った活躍をしないまま退場してしまった。いや、彼は手錠の鍵で、奇跡のシュートを決めたことが一番の手柄だった。「残った黒人は俺一人だから立場が危うくなる(次の生け贄だ)」の言葉通りだったか。

フィリップとは一体どういう人間だったのだろう。結末まで見ると、虐殺を行ってしまえるような人間、だった。一国の独裁者に近く、最終的に蜂起した民衆に殺されるような役どころだろうか。彼なりの苦悩(娘)とその壊れ方、ないしは主義の徹底ぶりが、前シーズンまでのシェーンのようには心情的に訴えてこない。それゆえ、7割近くの話数を割いて、アンドレアとの出会いからその有様を積み立ててきたわけなのだが、これが逆にどこまでもフツーの敵(かたき)役に見えてきてしようがない。あのメルルの指を食いちぎる残虐性。冷酷に拳銃を突きつけるイカレっぷり。立ち向かってくる連中を打ち倒すのが面白いのだ、と言わしめたわりには、なんともリアリズムの薄い芝居……。フツーの活劇ドラマになってしまっていて、これまでのウォーキング~らしさとはどこかが決定的に違ってしまったようだ。
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[ 2014/02/25 05:59 ] 映画、ドラマ感想 | TB(-) | CM(0)

ウォーキング・デッド一気視聴

第2シーズンを視聴

ハイウェイでソフィアが失踪するくだりだけで1話分持たせたのは上手かった。緊張感を保ったまま引きつけてくれたし、神にサインをくれと祈った矢先でのカールが倒れる場面。見事に(いい意味で)はぐらかされた。その後の第2話、第3話に対しては、ややスローペース過ぎると感じた。語られる内容に見合わない時間をかけ過ぎで、丁寧というよりも停滞期に陥っている。シェーンの変貌は、今後の流れを思い返せば確かに重要ではあったが。

活躍のないTドッグの存在感がたいへんまずい。唯一残った黒人であるのに、まるで居ないも同然だ。別のことでも気になった。例えば、10代後半の生意気盛りで無軌道な若者らしい力という描かれ方が、このドラマでは出てこない。そもそも該当する年頃の主要登場人物がおらず、たまに出てきてもまるで脇役扱いで、リックら大人の登場人物ほどの重要性でもっては描かれない。せいぜいグレンのような御しやすいタイプか、さもなければ歯向かってくるチンピラでしかない。これはもう意図的に、12歳の子供を持った世代を主役とした作品なのだ。親友と女房とワーカホリックな亭主の構図なのである。

納屋のくだりはゾンビものでは大抵でてくる逸話で、直前に予見できた。よそ者を寄せ付けないハーシェルが執拗に画面に描かれていたからだ。(Morrowindでのコープラス患者の収容所を思い出した。なぜなら、収容所の所長は、ハーシェルとまさに同じように、ゾンビを症状に冒された者として扱って「患者を傷つけるな」と言うのである)

ゾンビが全て納屋から出てきたはずの場面で、扉ショットをフィックスした“間”で、ソフィアが出てくる前にそれが分かってしまった。あの辺りも秀逸ではあるが、作為性が強く、私の求めるドラマとしての見所とはやや異なった。作劇においてクライマックスではあるけれども。

私見では第2シーズン第11話が、紛れもなくベストエピソードだ。人間のあるべき尊厳・気高さや尊さを今一度問い掛けるデールに対して、他の皆は考えることを敢えて止めてしまい、リックの決断に委ねようとする。きれいごとよりも生き残る手段が優先されつつあり、それには未然に危険を回避することが第一。納屋の一件でシェーンの暴挙が行き過ぎだったとしても、皆の安全を考えると決して間違っているとは言えなかった。シェーンは依然として水面下の問題であるものの、ほとんどの者はそれに気が付かないか見て見ぬ振り。デールとローリ、そしてリックには、表面化しつつある危惧が決して小さなものでないことが予感できている。しかしリックは、これまでがそうであったように、シェーンの主張を飲むしかない。それが皆にとって最善に思えるからだ。デールは、リックのそうした変化に再考を求め、もう一度、集団のあるべき姿を模索するよう提案する。幸か不幸か、リックは集団のリーダーであるよりも、まずカールの父親だった。処刑の瞬間、唐突に入ってきたカールに“Do that”と促されて狼狽してしまう。息子には『正しいこと』を伝えてやりたい。今の自分の行いは息子に誇れる正しいことなのか。

このエピソードには現実にも通用するテーマが上手く扱われている。

・ある集団の決定事項における個人の主張と立場
・親が子供に示してやりたい理想
・過酷な状況下での“人の行い”とは

「ワンマン社長」などともよく言う。パワーのある主導的人物の言うことが何でも正しいように受け止めてしまう心理状態もよく知られている。間違ったことをしているにもかかわらず、集団の在り方を潰さないために、口をつぐむという場合もある。えてして内部にいる者はそれを認識したがらない。身近な例では、学校や職場でのいじめがそうだ。いじめ行為を直接実行する人物というのは、そうは多くないのだが、周囲の者はそれを容認しているかのように口をつぐみ、虐げられた者の味方を表立ってすることはまずない。組織的な隠蔽工作もしかり。隠蔽のような全体的な行為は、見て見ぬ振りをする者が大勢いなければ成功しない。直接荷担する必要などなく、個人という存在感を消すだけで済んでしまうのである。

自分が人間的に未熟だと自覚していても、人の親となってしまう時はある。そうした新米の親でも、人並みに、子には世間的な尺度の理屈を教えたいと願う。子供が成長して、物事の善し悪しが分かるようになると、そうした未熟なことをしている親の振る舞いに、常識を教えられた子供は疑問を覚える。そのとき、子供の疑問に正々堂々と答えることが出来るかどうか。自らを手本として示せるのかどうか。

劇中の世界ほど過酷なら、あるいはもし戦時下のような状況であったら。人命のかかった非常事態に、どれだけ気高くいられるのか。人間らしさをどこまで固持できるのか。こうでありたいとは願っても、状況が許さなかったとしたら。シェーンの真似は意外と簡単かもしれない。それで自分や他人の命が買えるのなら。モンスターを追う者は自分がモンスターにならないように気をつけろ。線路に落ちた酔っ払いを、電車が迫る傍で助け起こそうと飛び込めるか。それがもし酔っ払いでなく、白い杖を突いた盲人だったら? 足がすくんで動けなかったとしても、責めを負ったりはしない。けれども……。

余談ながら、カールが沼地のウォーカーに石をぶつけて嬲る場面で、私はカールの荒み方を描く方向だろうと捉えた。つまり、ホームレス狩りのような悪癖をカールが患ってしまい、ローリやリックと陰でぶつかる構図である。生死を機械的に考える「恐ろしい子供」の演出だと。ここははぐらかされて、処刑のシーンとシェーンを撃つ場面で、やや似た意図が実践されていた。

カールに向き合う時のシェーンは(ローリとの絡みで相手をしないことも一頃あったが、大体の場面において)よい父親だった。ほぼ理想的でもあった。シェーンの忘れがたい一面である。

さて、リックはシェーンとの第12話での対決以降、以前よりも厳しい人間に変貌する。第1シーズンでの感想で、私はリックを善人過ぎると称した。それは制作側の狙いだったわけだ。さらにリックとの対比でしか表現しない手法も定着して、群像劇らしさは――少なくとも群像劇によって滲み出てくる人間ドラマという趣旨は――あまり期待できないことももう分かった。そこがウォーキング~らしさであることも。デールの退場は残念に思う。あんなような人のいい老人――実際にデールほどの口達者であるかどうかは知らないが――は、身近にもけっこう居るからだ。
[ 2014/02/20 04:14 ] 映画、ドラマ感想 | TB(-) | CM(0)

ウォーキング・デッド一気視聴

第1シーズンまで視聴

端から期待してはいなかったので、まぁこんなものだろう、という印象。どうして死者が歩くことになったかというパンデミックの原因についてはまだ触れられておらず。劇中では“ゾンビ”という例えは禁句らしく(字幕はやらかしてるが)、ウォーカーやらフリークやらと表現しなくてはいけない模様(笑)

第3話、第4話、第5話はドラマとして印象深かった。第6話は少々勇み足に見える。というのは、劇中での必須な説明を含んではいるものの、ジェンナー博士が皆を無理矢理閉じ込めてしまうことへの説得力がやや欠けているように感じたため。総じて作為的な筋書きが強かったせい。

ワタクシもご多分に漏れず、道義心溢れる人間ドラマが大好物。特に米国の、高いカネを注ぎ込んだドラマ作品は、何処かの国の湿っぽくて大げさなだけの未熟な作風とは異なって、ドライで最大公約数的に演出された作品が多く、万国共通な要素に富んでいる。まぁそれはともかく。自分の目で見るまでは、世間の評判を鵜呑みにはしないのが主義。

極限状態の人間ドラマは、なにもウォーキング・デッドが初めてではないはずで、いくつもの先例がある。要するに先行者をも超えられる質なのか、を確認したいわけ。LOSTはちょっと肌合いが違うように思えるが、例えば打ち切りのジェリコなんかは近そうだ。折しもアンダー・ザ・ドームという作品も現在ほぼ同時に視聴中で、それとの比較も興味深い。

ウォーキング~で弱点になるであろう箇所は、サバイバルへの焦点が見せ場になってしまうことだろう。登場人物の関係性が上手く絡められていればいいが、主人公リックの比重が高いまま筋が進み、脇役の活躍する頻度が限られつつある。正義感溢れるリックを主体として物語を視ることは心地よくカタルシスになるものの、それでは人間ドラマとして弱い。メルルやDV行為の夫(キャロルの夫)といった人物を、村社会の中でどう御していくのか、なんてことがドラマ的題材になるべきだと思うのだ。ピザ配達夫の韓国人(グレン)や、口ばかり達者な太っちょの黒人(Tドッグ)が活躍の場を与えられていた「アトランタ市街からの脱出劇」には群像劇の要素があったが、いかんせん、展開が生存に傾倒しすぎていた。ほどなくして問題人物はさっさと排斥されてしまう(都合良くウォーカーの犠牲になる)。以降は、好人物のリックとの対比でしか表現されない部分がもどかしい。シェーンがいい例だ。あのダリルすらも次第に溶け込んでいるのが、なんとも解せない。

シェーンこそ、このドラマで注目すべき人物に違いない。リックの親友でありながら、負傷して昏睡中のリックを病院から脱出させられず、リックの細君には死んだと言うしかなかった。それからは、この細君ローリとその息子カールを見守る立場になり、あろうことかローリとは人目を忍んで姦通する間柄になっていたのだから。夫リックが戻ってからはローリの方が、熱しやすいシェーンとは距離をおく様子を見せ、健気な妻に終始している。

こう書けば、ローリも充分注目に値する。生存本能に長けた女性らしい奔放さ、…とでもいうべきか。シェーンとの関係を作ってしまったのはそうした性ゆえかも知れない。ネックレスに付けていた夫の指輪を気にするくだりは見せ方として秀逸だった。この場面でわかる限り、彼女は本来貞淑であったわけなのだ。そのくせ、(パンデミック以前は)夫たるリックにけんか腰で接していたことが、リックからとローリ本人の言で証されている。その夫が生きて戻れば、何のためらいもなく縒りを戻す、とはシェーンの立場からすれば掌返しがすさまじい。シェーンがああなる(リックの後ろ姿にショットガンを向けてしまう)のも無理からぬことに見える。

今までの感想では:見所はあるが、リックというモラルがありニュートラルな基本人格が強すぎる。極論すれば、主人公が“よい人”過ぎる。リック偏重の嫌いがあり、主人公を巡る関係性は、その対比でのみ成り立ってしまう。デールやアンドレアも(キャンプでの出来事で)見所を作ってはいるものの、群像劇はいささかシンプルになりすぎている。人間はもっといろいろな考えを持っているはずで、善人に徹しきれない者がシェーンだけではなかったとしても不思議はないはずだが、劇中では脇役の描き込みをする余裕が乏しい(もしくは貴重な脇役の離脱が速い)。本格的な人間ドラマを見たいということなら、ゾンビに追われての生存劇では不足に見える。6話見た限りでは足りない。
[ 2014/02/20 04:11 ] 映画、ドラマ感想 | TB(-) | CM(0)
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